松波の歴史

出典:「松波のあゆみ」松波町史編集委員会
平成9年7月発行

過去、松波町会を支えて来られた先達の方々によって編纂(へんさん)された町の歴史を知る上で貴重な資料、「松波のあゆみ」を将来に残すため、一部をピック・アップして、ここに記録しております。この町に生まれ、住む若者たちが町を理解する上での一助となれば、幸いです。

-目次-

1. 松波町の沿革
(1) 松波町の沿革
(2) 松波町名の起り
(3) 松波町の設定
(4) 松波町に丁目住居表示

2. 松波町会の創立
(1) 戦中、戦後の状況
(2) 松波町会創立

3. 歴代町会長・副会長

4. 松波町公民館建設の経緯

5. 町内の祭礼


1. 松波町の沿革

(1) 松波町の沿革

この地域は千葉市の北西部にあたる丘陵地帯である。
近世の時代は下総の国に属し、大名佐倉藩の領地と來迎寺、大日寺、妙見寺の寺領であった。
また、穴川野地ともいわれ千葉寺、寒川、登戸、黒砂、來迎寺、大日寺、妙見寺(千葉神社)の入会地であり、 地形は高低差が著しく、松林が土地の大半をしめ、民家もまばらであった。
明治22年4月、町村制が施行され、今までの千葉町に千葉寺村、寒川村、登戸村、黒砂村が合併して新たな千葉町 が誕生した。
そして、この地域は千葉町大字登戸字○○と呼び名が変わった。
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大正末期から昭和初期にかけてのこの地域の戸数は十数軒で、以降の居住者の増加が町造りの一翼を担った。
昭和10年12月8日、千葉市立商業学校が寒川から全校移転される。
そして翌昭和11年9月、松波町が設定され、順次住民も増え始め、昭和13年12月には戸数28戸、人口165人となった。
昭和16年頃になると軍需工場、日立航空機の社宅や兵器補給廠、軍需要員の住宅等の建設と居住が進み、昭和20年 には3丁目東側から4丁目南地域にかけ、人口の増加は一段と加速した。
やがて戦災による罹災者の転入等もあり、昭和25年には戸数437戸、人口も1,922人となった。
昭和26年12月、松波県営住宅の入居が開始され、62世帯となった。
一方、市では戦災復興都市計画事業(宮内三郎市長が陣頭指揮)で市の中心街を、松波地域は弥生ケ丘土地区画 整理組合と、千葉復興(株)(社長臼井壮一氏)が宅地造成をして、その分譲が昭和31年頃まで行われた
(4丁目北、3丁目の一部、2丁目、1丁目の一部)。
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開発事業は昭和36年頃には概ね終了、明日への町造りの一歩が踏み出されたのである。

(2) 松波町名の起り

松山続きの土地で、高低から松の青葉が波の打ち寄せる様に見えるところから、松波と名付けられたそうである。

(3) 松波町の設定

昭和11年9月15日に旧千葉郡千葉町大字登戸、大字千葉の一部をもって設定された。
従って当時は松波町何番地と表示された。

(4) 松波町に丁目住居表示

昭和35年3月30日、荒木山土地区画整理事業に伴い、松波町に丁目を附し、1丁目、2丁目、3丁目を設定する。
昭和39年3月1日、新住居表示施行。新1丁目は、旧1丁目の一部。
新2丁目は、旧1丁目と3丁目の一部。新3丁目は、旧1丁目の一部。
新4丁目は、旧2丁目の一部。

松波町の世帯数及び人口の変遷
年度  世帯数   人口     年度   世帯数  人口
昭和13    28    165    平成元年  2,113   4,668
昭和25  437  1,922     平成2年   2,196  4,789
昭和30  1,129  4,641     平成3年   2,153   4,720
昭和35   1,920 6,613     平成4年   2,235  4,807
昭和40  1,985  6,866    平成5年   2,259  4,727
昭和45  2,154   6,677    平成6年   2,223  4,618
昭和50  2,068  5,484    平成7年   2,228  4,543
昭和55   2,101   5,219
昭和60  2,001  4,679
昭和63   2,063  4,665

2. 松波町会の創立

(1) 戦中、戦後の状況

大別して次の様な小区域の自治体組織があった。
A. 日立航空機株式会社の従業員住宅
B. 材料補給廠の軍需要員住宅
C. 親和会関係
D. 西千葉駅周辺地区

(2) 松波町会創立

戦後の復興の中、統一自治組織創立の機運が高まり、有志による準備が進められて、昭和31年7月、
アンケートが実施され、賛成591票、不賛成160票、白票81票と賛成多数の結果を得た。
そこで、昭和31年8月5日、千葉商業高等学校講堂で創立総会が開催されて、町会規約、事業計画、
初年度収支予算、会費、賦課徴収方法、方面別区割り決定、役員選任等が審議承認された。
当時の世帯数は、1,089世帯、人口4,481人であった。

3. 歴代町会長・副会長

年度         会長      副会長   副会長        副会長
昭和31年 藤木与吉   三浦文弥  小手正志
昭和32年 藤木与吉   三浦文弥  小手正志
昭和33年 藤木与吉   三浦文弥  小手正志
昭和34年 藤木与吉   三浦文弥  小手正志
昭和35年 藤木与吉   飯田 一
昭和36年 藤木与吉   斉藤春午  高原信哉
昭和37年 藤木与吉   斉藤春午  高原信哉
昭和38年 藤田簡士
昭和39年 棟朝文一
昭和40年 棟朝文一   飯田 一
昭和41年 棟朝文一
昭和42年 北島隆     野平弘三郎
昭和43年 野平弘三郎   高橋 保   三浦文弥  斉藤礼子
昭和44年 野平弘三郎   三浦文弥   高原信哉  柴山はつ
昭和45年 野平弘三郎   堀田義雄    小川明治  金杉こう
昭和46年 野平弘三郎   堀田義雄    磯野浩一  金杉こう
昭和47年 野平弘三郎   堀田義雄   前野正男   金杉こう
昭和48年 野平弘三郎   堀田義雄   前野正男   金杉こう
昭和49年 野平弘三郎   堀田義雄   細谷良治   金杉こう
昭和50年 堀田義雄    細谷良治    志太ゆき   金杉こう
昭和51年 堀田義雄     細谷良治   中村正太郎 金杉こう
昭和52年 堀田義雄    細谷良治   南 修治    金杉こう
昭和53年 堀田義雄     細谷良治  南 修治    己午高人
昭和54年 堀田義雄     照山 喬   己午高人   立石マツ
昭和55年 堀田義雄     照山 喬   己午高人   立石マツ
昭和56年 堀田義雄     己午高人   岩田 弘   内海米吉
昭和57年 堀田義雄        己午高人   岩田 弘   内海米吉
昭和58年 堀田義雄     己午高人   岩田 弘   内海米吉
昭和59年 堀田義雄     己午高人   岩田 弘   内海米吉
昭和60年 堀田義雄     己午高人   岩田 弘   内海米吉
昭和61年 堀田義雄     己午高人    岩田 弘   中村正太郎
昭和62年 堀田義雄     己午高人    岩田 弘   中村正太郎
昭和63年 堀田義雄     己午高人    岩田 弘   中村正太郎
平成元年 中村正太郎    高橋 隆     高橋 保   桜田平吉
平成2年   中村正太郎    高橋 隆     高橋 保   桜田平吉
平成3年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成4年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成5年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成6年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成7年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成8年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成9年   高橋 保        桜田平吉     勝山 一    宇井嘉久
平成10年 宇井嘉久  斉藤 明  勝山 一 森宮信男
平成11年 宇井嘉久  斉藤 明  勝山 一 森宮信男
平成12年 宇井嘉久  矢島英輔  鎌田辰夫 森宮信男
平成13年 吉田 武  矢島英輔  鎌田辰夫 森宮信男
平成14年 吉田 武  矢島英輔  高橋信美 森宮信男
平成15年 吉田 武  矢島英輔  高橋信美 三上雅敬
平成16年 吉田 武  矢島英輔  高橋信美 三上雅敬
平成17年 吉田 武  矢島英輔  高橋信美 三上雅敬
平成18年 吉田 武  矢島英輔  高橋信美 三上雅敬
平成19年 吉田 武  矢島英輔  高橋信美 三上雅敬
平成20年 三上雅敬  志太 稔  大野明二 芦沢東洋夫
平成21年 佐久間公忠 大野明二 芦沢東洋夫 坂巻一郎
平成22年 佐久間公忠 大野明二 芦沢東洋夫 坂巻一郎
平成23年 佐久間公忠 坂巻一郎 石田 甫
平成24年 倉又幸也 坂巻一郎 石田 甫
平成25年 倉又幸也 坂巻一郎 石田 甫
平成26年 倉又幸也 河野凉一
平成27年 石田 甫 河野凉一  岡本英美
平成28年 石田 甫 河野凉一  岡本英美
平成29年 石田 甫 河野凉一  岡本英美
平成30年 石田 甫 坂巻一郎 岡本英美

4. 松波町公民館建設の経緯

昭和32年の第2回総会に公民館建設の提案がなされたが、重要な問題なのでその場では決められず、改めて具体案を作って町会員全員の賛否を問うべきとの意見が強かった。
そこで役員会は、数度に亘り公民館の必要性、利用価値等について宣伝活動を行い、昭和33年2月以降、区ごとに世論調査を実施した。
結果は次の通り。
区割 賛成   反対   保留    計
1区     23      16       14      53
2区   125      11       54    190
3区   126     28         4    158
4区     –        –          –       –
5区    116      11               127
6区    132     58      22    212
7区      50     47     62     159
計       571   182    167   899
注:当時の区割りは現在と異なり、7区に分けられていた。なお、4区は現在の千葉商と県営住宅を合わせた地区で、県営住宅には独立した集会場があった。

町会最初の公民館は、第3回総会にて建設計画の提案・承認を受け、昭和33年12月17日、地鎮祭が行われ、蘇我中学校の校舎廃材を利用して平野工務店にて建築施工された。平屋建ての公民館で、26年ほど利用された後、昭和59年6月、次の2階建て公民館建設のために解体される。

現在の公民館は、昭和59年6月6日地鎮祭、同年10月31日落成式が行われ、今日に至る。

5. 町内の祭礼

その昔、松波地区の多くは登戸地籍であり、登渡(登戸)神社の氏子が多かった。
登渡神社の祭礼は、毎年9月5日から7日までの3日間に亘り執り行われ、明治、大正、昭和にかけて大いに盛り上がった。
お神輿の渡御の日は数百人の若者が勢揃いして、獅子舞、山車、太鼓(直径1m)と共に大神輿が登渡神社を出発し、一路北上、総武線踏切(現在の松波陸橋の所)を渡って西千葉駅付近まで練り歩いたとのことである。

その後、松波町も住民数が増加し、昭和13年頃には28戸だった戸数も昭和25年には437世帯、人口も1,922人となり、子を持つ親の中から夏休み中に松波独自で子供たちを楽しませる行事はないものかとの声が上がった。
そこで検討の結果、夏祭りが提案され、昭和26年頃に日機器株式会社(日立航空機株式会社の整理会社)の方々と多くの協力者により、樽神輿が作られた。
大人も子供も町を上げて喜んだが、それからしばらく後(昭和31年以後、正確な年不明)、本物の神輿を望む声が高まり、現在の神輿2基が5万円ほどで購入された。
mikoshi2祭礼の実施時期については、子供の夏休み期間である8月の第一土曜日、日曜日、月曜日の3日間とし、なか日を町内お神輿渡御日にあてて、盆踊り等にぎやかに過ごすこととなった。

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祭礼の準備手順であるが、まず理事会にて当該年度の祭礼実施の賛否を問う。
そこで実施と決した場合は、松波町会、松波商工振興会、町内有志等から祭典委員を選出して祭典準備委員会を招集、以降、祭典委員会として日程、準備作業分担、諸経費等、お祭りの開催・運営に関する諸事項を司る。

また千葉市には「親子三代夏祭り」(千葉開府850年を記念して、昭和51年に第1回開催)があり、松波町からも子供神輿1基と担い手、児童と大人役員、総勢130名程度で参加していた。