◆松波の歴史

昭和50年ごろの西千葉駅ロータリー

明治・大正の頃、近隣の登戸(のぶと)などの人たちが、山ばかりだったこの土地を開墾し、畑にしてサツマイモや小麦、野菜を作ったとあります。まだ、ほとんど人の住まない松山だった様です。
そこに昭和10年(1935年)、県立千葉商業高校が寒川から現在の地に越して来て、昭和11年(1936年)9月、千葉町大字登戸(のぶと)・大字千葉の一部から分離して「松波町」が誕生したとあります。「松山つづきの土地で、高低から松の青葉が波の打ち寄せる様に見えるところから」そう名付けられたそうです。
昭和16年(1941年)から兵器産業であった日立航空機の社宅が現在の3・4丁目付近に造成されました。そうして戦争が終わって宅地開発が進み、その後現在の様な住宅の街に変身してきたのです。

東京・中野から千葉まで直通電車が走る様になったのは、昭和10年のことですが、東大第二工学部が設置されると、通学に支障があるとして、昭和17年(1942年)、それまでの稲毛駅と千葉駅の間に西千葉駅が設置されてからその便利さが買われ、戦後になると松波町は東京の通勤圏として急速に住宅地として変貌する様になりました。

それを更に加速させたのが、千葉駅の移転でした。千葉駅は長く現在の東千葉駅の位置にあったのですが、当時、東京方面からの列車が内房・外房線に入ろうとするとスイッチバックして向きを変えなければなりませんでした。そこで昭和38年(1963年)、西に800m動いて蒸気機関車の車庫であった現在地に千葉駅が移され、それにより松波町は千葉駅にぐんと近付くと共に西千葉駅にも接するという地の利を得ました。
高校や大学もが辺に次々と建ち、県営体育館(現在の市営体育館)やプール、市立中央図書館などの社会教育施設、さらに千葉公園や護国神社と緑豊かな環境も整い、住宅地としての格を上げてきました。

近年その西千葉周辺も大きな変容を遂げております。令和4年に護国神社が桜木町へ移転し、千葉公園に隣接する千葉競輪場は「TIPSTAR DOME CHIBA」(千葉JPFドーム)という多目的スポーツ施設へとなり、市営体育館は令和5年「YohaSアリーナ」という千葉公園総合体育館に建て替わりました。

宇宙基地のような TIPSTAR DOOM CHIBA(千葉市競輪場)とYohaSアリーナ(千葉市総合体育館)

(1) 松波町の沿革

この地域は千葉市の北西部にあたる丘陵地帯である。
近世の時代は下総の国に属し、大名佐倉藩の領地と來迎寺、大日寺、妙見寺の寺領であった。
また、穴川野地ともいわれ千葉寺、寒川、登戸、黒砂、來迎寺、大日寺、妙見寺(千葉神社)の入会地であり、 地形は高低差が著しく、松林が土地の大半をしめ、民家もまばらであった。
明治22年4月、町村制が施行され、今までの千葉町に千葉寺村、寒川村、登戸村、黒砂村が合併して新たな千葉町 が誕生した。
そして、この地域は千葉町大字登戸字○○と呼び名が変わった。
banshu-minka
大正末期から昭和初期にかけてのこの地域の戸数は十数軒で、以降の居住者の増加が町造りの一翼を担った。
昭和10年12月8日、千葉市立商業学校が寒川から全校移転される。
そして翌昭和11年9月、松波町が設定され、順次住民も増え始め、昭和13年12月には戸数28戸、人口165人となった。
昭和16年頃になると軍需工場、日立航空機の社宅や兵器補給廠、軍需要員の住宅等の建設と居住が進み、昭和20年 には3丁目東側から4丁目南地域にかけ、人口の増加は一段と加速した。
やがて戦災による罹災者の転入等もあり、昭和25年には戸数437戸、人口も1,922人となった。
昭和26年12月、松波県営住宅の入居が開始され、62世帯となった。
一方、市では戦災復興都市計画事業(宮内三郎市長が陣頭指揮)で市の中心街を、松波地域は弥生ケ丘土地区画 整理組合と、千葉復興(株)(社長臼井壮一氏)が宅地造成をして、その分譲が昭和31年頃まで行われた
(4丁目北、3丁目の一部、2丁目、1丁目の一部)。
showakatei
開発事業は昭和36年頃には概ね終了、明日への町造りの一歩が踏み出されたのである。

(2) 松波町名の起り

松山続きの土地で、高低から松の青葉が波の打ち寄せる様に見えるところから、松波と名付けられたそうである。

(3) 松波町の設定

昭和11年9月15日に旧千葉郡千葉町大字登戸、大字千葉の一部をもって設定された。
従って当時は松波町何番地と表示された。

(4) 松波町に丁目住居表示

昭和35年3月30日、荒木山土地区画整理事業に伴い、松波町に丁目を附し、1丁目、2丁目、3丁目を設定する。
昭和39年3月1日、新住居表示施行。新1丁目は、旧1丁目の一部。
新2丁目は、旧1丁目と3丁目の一部。新3丁目は、旧1丁目の一部。
新4丁目は、旧2丁目の一部。

(5)松波の人口推移

年度  世帯数   人口

昭和13 28 165
昭和13 28 165
昭和25 437 1,922
昭和30 1,129 4,641
昭和35 1,920 6,613
昭和40 1,985 6,866
昭和45 2,154 6,677
昭和50 2,068 5,484
昭和55 2,101 5,219
昭和60 2,001 4,679
昭和63 2,063 4,665

年度  世帯数   人口

平成元年 2,113 4,668
平成2年 2,196 4,789
平成3年 2,153 4,720
平成4年 2,235 4,807
平成5年 2,259 4,727
平成6年 2,223 4,618
平成7年 2,228 4,543

(6)町内の祭礼

その昔、松波地区の多くは登戸地籍であり、登渡(登戸)神社の氏子が多かった。
登渡神社の祭礼は、毎年9月5日から7日までの3日間に亘り執り行われ、明治、大正、昭和にかけて大いに盛り上がった。
お神輿の渡御の日は数百人の若者が勢揃いして、獅子舞、山車、太鼓(直径1m)と共に大神輿が登渡神社を出発し、一路北上、総武線踏切(現在の松波陸橋の所)を渡って西千葉駅付近まで練り歩いたとのことである。

その後、松波町も住民数が増加し、昭和13年頃には28戸だった戸数も昭和25年には437世帯、人口も1,922人となり、子を持つ親の中から夏休み中に松波独自で子供たちを楽しませる行事はないものかとの声が上がった。
そこで検討の結果、夏祭りが提案され、昭和26年頃に日機器株式会社(日立航空機株式会社の整理会社)の方々と多くの協力者により、樽神輿が作られた。
大人も子供も町を上げて喜んだが、それからしばらく後(昭和31年以後、正確な年不明)、本物の神輿を望む声が高まり、現在の神輿2基が5万円ほどで購入された。
mikoshi2
祭礼の実施時期については、子供の夏休み期間である8月の第一土曜日、日曜日、月曜日の3日間とし、なか日を町内お神輿渡御日にあてて、盆踊り等にぎやかに過ごすこととなった。

bonodori

祭礼の準備手順であるが、まず理事会にて当該年度の祭礼実施の賛否を問う。
そこで実施と決した場合は、松波町会、松波商工振興会、町内有志等から祭典委員を選出して祭典準備委員会を招集、以降、祭典委員会として日程、準備作業分担、諸経費等、お祭りの開催・運営に関する諸事項を司る。

また千葉市には「親子三代夏祭り」(千葉開府850年を記念して、昭和51年に第1回開催)があり、松波町からも子供神輿1基と担い手、児童と大人役員、総勢130名程度で参加していた。